中外日報 2000年(平成12年)3月20日 中外アート 不定期連載エッセー&コラムより 1/3紙面

現代仏画制作事情
完成度の低い現代仏画
仏画工房 楽詩舎 代表絵師 藤野正観


 仏画と一口に言っても一般には、大きく分けて芸術作品としての仏画と、仏具としての仏画が存在し、また、認識されているようである。

 私は依頼により仏画を描くことを生業としているので、どちらかというと後者の仏具としての仏画を制作していることになるのだが、私の場合は、どうしても仏画を "絵゛として観てしまう。
 私が、この世界に入ったのは、若い頃、イタリア・ルネッサンス期の宗教画家であるところのダビンチやボッテチェリ・ラファエロといった大家の描く崇高な色彩と形に憧れた。
いわゆる総合的な"美゛というものに共鳴し、回り道の末、仏画という表現方法はぜんぜん違うのだが、制作意図と目的とを同じくした"絵゛に巡り会ったわけだ。
当然前者はキリスト教を、後者の仏画は佛教を伝え説くための絵であるから宗教を超えたところで共通しているのだ。
少なくとも私が宗教画に関わった中ではそう思っている。
両者とも最高の芸術作品だと――。

 昨今は、写経と並び写仏も盛んのようである。その延長として「仏画の描き方」なる冊子が多く出版されている。
今は、何でもマニュアルがなければ何も始まらないといったことかもしれないが、そのことがいっそう仏画を信仰の対象と位置付け、本当の意味での芸術性から遠ざけているのかもしれない。
 明治時代の日本画の大家が、仏画を頼まれて描こうとしている弟子に絵描きの姿勢として大いに嗜めた事を何かで読んだことがある。それは、おおよそこうだった。
「佛のお姿を描けば観る人は必ず手を合わせてくれる。絵描きはともすれば自分の技量に対して手を合わせてもらっていると勘違いをする。絵の修行をするものは、安易に佛を描いてはならぬ。」ということだ。
佛の描かれた絵は、作品としての評価がつけられないのだ。
 私は、仏画の制作者として、描いたものが佛というだけで、ありがたいありがたいと感謝され喜んで頂ける。そんな仕事をさせてもらっている。描いた内容が他のものなら、こうはいかないとも認識している。
自分が絵描きとして意識した時は、生ぬるい湯に肩まで浸かって仕事をしていることに恥ずかしささえ覚えることもある。
 話しが逸れたが、このことから、裏返せば、逆にマニュアルさえ覚えれば誰にでも仏画が描けるということにもなるわけで、昨今の仏画が、完成度の低いものとなっている要因にもなっている。
つまり、芸術家としての絵仏師や仏画家に厳しい批判のできる大家と呼ばれる人物や指導者が居ないのだ。
 この状態は、現代の仏画制作者にとって、きわめて不幸なことで、第三者の厳しい批評を受けにくい状況を作り出している。
信仰心だけでは、造形内容は良くならないのだ。
それプラスたゆまない技術の練磨があってはじめて良い仏画が生まれるのだ。
 自分の為に描く仏画なら、それはそれでも良い。
しかし、寺院に後世まで残るであろう仏具としての仏画を描く絵描きは、しっかりと自分の技量を磨き、また勉強し、少しでも完成度の高い仏画を目指すという自覚が求められる。

      

ふじのしょうかん