中外日報 1997年(平成9年)6月7日 記事より 1/2紙面
浄土宗の関東十八檀林の 筆頭として多く切学僧を輩出した歴史をもつ東京・小 石川の傳通院(吉川哲雄貫主、九〇歳)で永年の念願であつた橿信徒会寧「繊 月・(せんげつ)会館」が完成し、去る五月二十四日、 その落慶式典が盛大に営ま れた。 当日はあいにくの雨 にもかかわらず京都・総本山知恩院から中村康降浄土門主代理の塩竃義弘知恩院文化財保存局長、大本山増上寺の藤堂恭俊法主と野呂 幸進執事長、大室了晧東京教区長代理の大谷旭雄教化団長らが参列して祝辞を述ベたほか「関東一円の随喜寺院および檀信徒が多数参列した。
「織月会館」の名は、同寺の開山「西蓮社了誉上人 繊月禅師聖冏大和尚」(浄 土宗第七祖)の名に因んだ もので、開山上人の遺徳鑽仰と建学布教の意に基づいて、新世紀に対応した教化活動の道揚として建立されたという。 完成した会館は地上三階 地下一階建て、鉄筋コンク リート造り。エレベータ付き。 建築面積は三三七・六八平方b。一階は一五〇平方 b、二百人収容の多目的 ホ−ルで、正面には”繊月禅師″開山了誉上人の見事 な遺影が飾られている。 二階は寺務所と小ホール・控 え室・湯沸かし室、三階に はシヤワー、浴室を備えた 宿泊可能の控え室(和室6〜8畳)が五室あり、通夜の際の仮眠や付き添いもで きるという檀信徒の利便を計った造りになっている。 開山了誉聖冏上人は一三 四一年常陸の国(茨城県) に生を受け、八歳で仏門に 入り、名を聖冏と改め念仏 修行に励み、七十九歳で入寂するまでに数多くの著作を残した高僧として知られいる。 晩年は、高弟の西誉聖聡上人(増上寺開山)の切望により小石川の地に草菴を結び、「無量山伝通院 寿経寺」と号し、現在の傳通院の開山となった。 上人 は顔が頂骨高く聳え、眼光 鋭く、そして額に繊月(三 日月)の相があったため、 世に「三日月上人」とも呼 ばれていたという。 落慶式当日は、あいにく り雨天であったが、会館には所狭しと参列者がつめかけ、午後二時から会館で落慶法要を、そのあと本堂に会揚を移し、奉告法要を盛大かつ滞りなく行なった。 新しい会館を主会揚に祝宴 も賑々しく行なわれた。 落慶法要では、″法運隆昌″を思わせるかのごとき 勇壮な法鼓が鳴り響き、道場洒水(丸山博正潮泉寺住職)、道場散華(服部光順昌清寺住職)によって道揚 を清めた。ここで、導師の木村正俊副賞主、脇導師の 傳通院山内真珠院住職石井道彦氏ならびに江東組源法寺北川洪才氏、式衆として 地元豊島組の寺院住聯ならびに傳通院法縁寺院らが入堂した。 無言三礼、導師・式衆らによる四奉請・散華、伽陀 (田中勝道氏)の後、会館一階ホール正面の幕が開かれて、見事な「開山聖冏上人御影」が姿を現わし た。 これは京都の絵師、藤野正観氏によるもので、木村副貫主が「表白」を 読み上げ、繊月会館が開山堂としての意義もとどめる ものである旨を言上。 大本山増上寺雅楽会による楽音 に荘厳され、滞りなく法要 が終了した。 |