日本経済新聞 1997年(平成9年)5月26日  文化 原稿依頼記事より 1/4紙面

十八畳の和紙に大涅槃図
◇総重量100`、多くの情熱と協力得て完成◇
藤野正観

 今春創立七十周年を迎えた東京・稲城市の女子一貫教育の駒沢学園に、「平成 大涅槃(ねはん)図」を描いて納めた。
七十年ほど前にすかれた巨大な一枚和紙を使ったもので、多くの方々の協力と情熱なしには実現しなかったものだ。

世界最大貴重な手すき紙
 涅槃図は縦四・八b、横四・六bのめ継ぎ目なしの一枚和紙こ、白衣で横こわる 釈迦(しゃか)、周囲には、菩薩(ぼさつ)、羅漢、五十種を超す動物や虫が集まって死を悼んでいる。
釈迦らの部分は、高野山金剛峰寺所蔵の国宝「仏涅槃図」を元絵とした。
制作年代から応徳涅槃図と呼ばれる、仏画の最高峰だ。
動物の部分は京都・東福寺蔵の室町時代に明兆が描いた重要文化財の涅槃図を参考にした。
違和感なくまとめるには、私の内で消化し再構成する必要があった。         


東京・駒沢学園に納めらた平成大涅槃図

 平成大涅槃図は駒沢学園の東隆眞学長の発願により 生まれた。
いずれ母となろ う女学生・生徒たちの心の宝になりうるものをと、切望されたものであった。
 相談を受けた私の作品を販売している出版社の社長は、全国を探して、三間(五・ 四b)四方の大きな一枚和 紙を探してきた。
大正十四年(1925年) に横山大観・下村観山両画伯が、早稲田大学図書館の壁画を描くため、手すき和紙で著名な福井県の故岩野平三郎氏に制作を頼んだものだ。
当時、出来るはずが ないと言われたが、工夫を重ね八人がかりで漉いたという物だった。
早稲田大学のほか読売新聞社、永平寺などで使われ、 世界最大の手漉き和紙として ドイツのグーテンベルグ博物館などに贈られ、残りの 二枚だけが岩野製紙所に残っていたのだ。 
 岩野製紙にとっても貴重 なものだが、駒沢学園に涅槃図を描くためとお願いしたところ、快く了承して下 さったとのことである。
 だが、七十年以上も前の紙だ。一枚は使えず、今回使った一枚も周囲が傷んで いたため、一部切断して使 わざるを得なかった。

お寺の薬湯場借り仕事
パルプを下敷きにして、 コウゾ、ミツマタ、麻を混ぜて漉いた、古くて分厚い和紙と対面した時、これに繊細な筆の線が描けるのだろうかと、冷や汗が出たの を覚えている。
 絵を描くには、まず、表面をなめす必要があった。 表具師・木原道弘氏が ほぼ二カ月かけて三度も四度も水にさらし、足で踏んだという。
なめした紙は軟 らかくなったが、和紙で裏打ちをして、やっと描ける状態になった。平成七年の六月、下準備が終わった巨大な和紙が 私の所に届いた。         
 私は六九年に十八歳で染繊図案家の内弟子となっ た。
仏画にめぐり合うまで は伝統美術の研究に明け暮れた。
それとは別に、イタリア・ルネサンス期の宗教画が好きで模写をしていた。
西国三十三カ所を巡礼したいという父の為、集印軸に観音図を描いたの が、仏画への出発点だった。
 縁あってある出版社の社長と出会い、同社の仕事を通じて、浄土宗大本山 善導寺の「法然上人御真影」の復元図、金戒光明寺 所蔵「山越阿弥陀図」の復元などを行い、多くの仏画 を描いてきた。
 だが、今回の仕事はケタ 違いだっ た。端を除 いても紙の大きさは十八畳大。
私のアトリエでは 描けず、日頃お世話 になっている近くの西国二十番札所・善峯寺の薬湯場をお借りした。
大きなお寺のお堂といえども絵を立て かけることは不可能。
また毎月一度は、薬湯場を使うので片づげなければならない。
仕方なしに床にベニヤ板を敷き、その上に和紙を置いて描くことにした。
 紙と絵の具の接着を良くするため、紙に塗るドウサ は、バケツに二杯用意したが、ほとんど使い切った。
次 に半年がかりで用意した下絵を弟子と共に三日問で和紙の上に写し取り、墨で輪郭を描く骨描(こつがき)に入ること ができた。

絵の上に座布団敷き描く
やたら大きく分厚く、象の肌のような世界一の和紙 との格闘が始まった。
猛暑の中、汗を落とさないよう、また虫をつぶ して絵を汚さないよう、極度の緊張を強いられた。
 描く時は、座布団を敷いてその上に座り込んだ。絵の具は薄すぎては紙に負けて しまうし、余り厚塗りでは巻物として保存する際、剥げ落ちる。
限度ぎりぎりまで厚く塗った。
全体の調子を確かめるため、はしごを かけて天井から見渡した。

 時には参拝客に励まされながら、紅葉が色づき出し た十月末、ついに、なんとか完成 した。
紙の重さだけでも三貫目(11.25`c)、 太さ20センチもある軸棒をつけると、総重量は百`cに も達した。 
 駒沢学園では、毎年三月 の涅槃会や四月の釈迦誕生会にこの平成大涅槃図が講堂に掲げられるという。
 死の暗さより、人間釈迦 が悟りを開き、安らかに、仏に成る瞬間を描いた涅槃図。
女生徒たちが、そこから仏教徒の目指すべき涅槃という言葉の意味や美しさ・喜びを感じてもらえれば、東学長はじめ、この絵 の制作にかかわった人たちの苦労は報われる。
(ふじの・しょうかん=仏画師)

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